第二報道部オフサイド日記

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66年前

今から66年前の終戦前夜の1645年(昭和20年)の 8月14日の午後10時30分から翌15日の午前3時30分まで 私が今住んでいる秋田市土崎地区はアメリカ軍の日本石油秋田製油所の破壊目的で132機のB29の戦闘機から12,047発・約1,000トンが投下され製油所周辺は真っ赤に燃え上がり、秋田市周辺部からも見えたと言われます。 石油精製工場の 87%・貯蔵設備の70%が破壊され250人の犠牲者が出ました。
空襲で体にヤケドを負った人々は近くの「ひかり沼」に飛び込んだと言われております。
当時の土崎高等女学校(のちの秋田市立高校ー現秋田中央高校)の従軍看護婦たちが負傷者の懸命の手当てをしましたが、医師不足と医薬品不足で犠牲者を救えなかったとの記録もあります。
毎年、この時期に土崎地区では犠牲者の慰霊祭が行われます。
今でも、時々この地区では当時の不発弾が発見されます。


<私の家の近くにある空襲犠牲者の慰霊塔>
  
慰霊塔の文字は元秋田県知事 故小畑勇二郎氏の筆跡
慰霊塔の台座は、当時の日本軍の大砲の台座。日本軍の砲弾はアメリカ軍の飛行機には遠く及ばなかったと言われております。
町内会では今日正午よりサイレンの響きとともに黙とうで慰霊祭が行われます。

今回の震災地の岩手県釜石も昭和20年7月、8月にアメリカ軍、イギリス軍の軍艦から5,300発の艦砲射撃を受け、大きな被害を受けた記録があります。