第二報道部オフサイド日記

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あきたふるさと学講座

9月8日(土)、秋田市は厳しい残暑の33℃

午後1時から秋田市山王の秋田県生涯学習センターで秋田県立男鹿(おが)工業高校ラグビー部元監督で、現在はノースアジア大学ラグビー部監督の内藤徳男氏による「あきたふるさと学講座」がおこなわれました。私はパワーポイントの映像担当。

内藤監督時代の男鹿工業高は4度の全国大会(花園)出場。いずれも秋田県予選で全国大会全国最多出場、全国最多優勝の名門 秋田工業高を破っての出場だった。

会場には教え子や、教え子の親なども受講しに来てくれた。

この秋田県学習センターには高校の元教職員も多くいた。

演題は、男鹿工業高校ラグビー部監督時代に常に目標に掲げた「打倒秋工! めざせ花園」

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会場では実際のラグビーボールを受講者に持ってもらい、感触を味わってもらった。
受講者にはラグビーボールに初めて触れた人も多く、「以外に軽い」 との感想も。
講座では男鹿工業高が初めて花園出場の時の映像が放映された後、内藤氏の小学生時代、秋田南中学校での柔道部時代、法政大学ラグビー部時代の、秘蔵写真も公開された。
男鹿工業高監督時代、男鹿地区での部員勧誘で、優秀な生徒は秋田市の秋工ラグビー部を希望する中、玄関先で断られたり、工業高校と言ったら秋田工業高と間違えられ歓迎され、途中で男鹿工業と修正するのに大変だった等でセールスマンと同じだったとの苦労話や、昭和63年に花園初出場の開会式で秋田県代表「男鹿(おじか)工業」とアナウンスされたのにはショックだったと無名校の嘆きも語った。そして、いかにして新設の男鹿工業高が全国一の秋工(秋田工業高)に立ち向かったかの体験談を時間いっぱいに話された。

そして最後に、部員たちがファイナルゲームを「悔いの無い生涯の思い出の試合として残させてやりたい」との持論で締めくくった。


質疑応答では、質問者から「今の男鹿工業高校を強くするには?」と、鋭い質問が出された。
これに対し内藤氏は ①プレーヤーが、とことん追い詰められた気持ちになっているか?追い詰められた気持ちから小さな弱者でも強いものに歯向かう力が出てくる。
(内藤氏が常に口走っている「反骨精神」、同じ工業高校生じゃないかと、男鹿工業監督時代は生徒に言い聞かせてきた)

ラグビーは陣地をとって、いかに相手の陣地で長くプレーできるか。前半30分を必死に僅差に抑える事だ。前半、僅差に抑え、後半に入れれば後半30分で必ずチャンスがやってくる。そのチャンスを活かす事だ。と語った。

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<熱い思いを語る内藤徳男氏>