後輩のナッツさん


<秋田南中学校跡地・当時の校門は今も、しっかりと残っている>

秋田南中学校卒業のナッツさん。私は昭和39年卒ですから結構後輩ですね。
我々は、卒業後10数年経ってから39年卆なので39(サンキュウ)会などと、同期生の親睦会をつくった事がありましたが、それぞれの人生が移り変わり、今はありませんが親しい者同士の近くにいる連中が時々語り合います。
何よりも、恩師が生きていればこそです。私は今でも母校の誇りを持っております。
今思えば、中学3年生の高校受験の今頃の時期が、過去の人生で一番楽しかった様な気がします。

私の同級生で合唱部だった「塩谷真砂子さん」という方がおりました。卒業後、イタリアのミラノで歌の道に進んだと聞いておりました。担任の大自慢の教え子でした。
その割りに、同じ音楽の吹奏楽部だった私は、ブログを全国に発信している身なのです。
我々の時代に、沖縄の中学校と合唱部との交流が始まりました。今も交流があるかどうかわかりませんが、当時は船で本土から沖縄に渡った様です。
沖縄出身の「宜野座先生」が、縁を取り持ってくれました。気難しい先生ではありました。

当時の南中学校には「あだ名」のあるユニークな名物先生がたくさんおりました。
音楽の三浦先生は、げっそりしていたので「ミイラ」、理科の石井先生は「マジックばばあ」、理由はよくわからない。技術家庭の内村先生は「閣下」、男子生徒のお尻にキックしたり、黒板によく天皇陛下の絵を書いたりし、授業が始まる前には、ホイッスルを吹いて円形校舎の教室に入ってきたりしました。美術の池内茂吉先生は「カッパ」。頭がカッパの様でした。
私の担任で体育の京野誠子先生は、妖艶な感じで「モンロー」と呼ばれておりました。その京野先生も数年前に亡くなってしまいました。
そうだ、秋田工業高校へ転任した女子バレー部の鬼監督、「ガン鉄」こと、高橋先生も忘れられない。「ガン鉄」が秋田工業に移ってから秋田工業のバレー部が強くなった。
柔道の「カツロウ先生」もいた。

当時、一番嫌だったのが、体育館での学年朝礼で校長が「何年何組何番」、と指名して、勉強の問題を900人もの生徒のいる前で答えさせるのだ。私はいつも「当たらないように、当たらない無いように」と願っていた。その願いがかなって、一度も指名された事がなかった。