第二報道部オフサイド日記

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あれから40年

1983年(昭和58年)の40年前の今日、昼前に男鹿沖を震源とするマグニチュード7.7、秋田市などで震度5を観測する日本海中部地震が発生し、建物破損や、港湾破損、そして津波により秋田県では男鹿の賀茂青砂海岸に遠足に来ていた合川南小学校の児童13名や能代の港湾作業員ら秋田県では83人が犠牲になり、そのうち79人が津波により亡くなった

当時、私は職場が定休日で土崎の自宅から八橋球場に高校野球の大会を観戦するために車で臨界道路を走行中だった。

車がパンクしたように大きく横揺れした。パンクかと思い、車を止めて周囲を見たら電線が大きく揺れて、地震だと思った。

その当時は、津波のことなど全く考えていなかった。

市内のあちこちから、消防車のサイレンが鳴り響いた。火災があちこちで発生したようだった。

家に戻らず、会社に向かった。会社は定休日であったが、本社から監査で数人、会社に来ていた。

事務所のキャビネットが倒れていた。

その後、家に帰ると家財が散乱していた。その後、ニュースが続々と入ってきた。

これが今だったら、土崎の港近くの自宅には戻らず、高台に避難していたと思うが、本当に津波が来ることは全く考えなかった。それだけ秋田には地震津波という感覚が無かったからだった。