第二報道部オフサイド日記

秋田の話題・お祭り・風景・秋田のラグビーの紹介

〜天上はるかに〜

「〜天上はるかに太平山の 姿はけだけし三千余尺 長紅流れて六十幾里 海へと馳せ行く雄物川波〜♪」・・・・・・ これは土井晩翠 作詞の秋田高校の校歌である

<秋田高校東京同窓会会報の総会フォトギャラリーより>

左から楢岡氏(46年卆)進藤氏(43年卆)夏井氏(ジャパン)、神崎氏、千田氏


<秋田高校東京同窓会会報へ尾形均氏が寄稿したラグビー部今昔>
秋田高校東京同窓会会報「天上はるかに」2009年9月初秋号が秋田高校ラグビー部OB会のホームページに紹介された。内容は相当充実している。秋田高校同窓会会長は日本テレビニュース番組でおなじみの橋本五郎氏だ。10月24日(土)に東京信濃町日本青年館」で「美(おい)しい秋田」秋祭りが開催される。秋田弁で語り、秋田の地酒を飲み、講演会あり、「天上はるかに太平山の 姿は けだけし三千余尺 長紅流れて六十幾里 海へと馳せ行く雄物川波〜 」と秋高校歌を高らかに歌われると思う。挨拶は橋本五郎氏だ。日本青年館には私も2度ほど宿泊した事があるが国立競技場や秩父宮ラグビー場の近くだ。
会報には我の同胞、昭和43年卒でラグビー部OB 尾形均氏が「ラグビー部今昔」と題して寄稿されていた。
その内容から抜粋してみます。
校長の鈴木健次郎は文武両道を掲げ、生徒に汝何の為にそこにありや、と問いかけ続けていました。ラグビー部はその頃、秋高陸上部、北高陸上部とともに秋田大学グランドを借りていて、練習は疲れたら休憩を取るような和やかな雰囲気が漂っていました。6月のある日、やさしい顔つきの先輩がグランドにやって来て火曜と金曜に練習を見にくると告げました(中略)それからの火曜日、水曜日は悪夢と化しました。キサン(貴様)死んだ魚のようなその目は何だ。目ん玉の皮引ん剥ぐまでやるぞ!入部したことを悔やみました。「夏合宿練習試合で市立高校に負けてタックル練習が待ち受けていました。何本やったろうか。それが終わると今度はゴール前の攻撃パターンを10本というものでした。10本は終わりが無い事を告げているようなものです。それでも1本again,2本、again.again.4本、5本までたどり着いたと思うと逆戻りして4本、5本・・・賽(さい)の河原です。その時、終わりの無い練習に業を煮やした2年生が鬼コーチに殴りかかりました。コーチは男盛りの30歳、しかも明治OB。勇気と決断が要った事です。天変地異、遠い身内の不幸を待っていた私は天祐とばかりに喜びました。練習は中断しその後2,3本で終わりました。そんなこともありましたが、その秋には秋田工業を決勝戦で破り翌年正月、初めて秋田高校は西奥羽代表として花園ラグビー場の土を踏んだのです。花園では秋田の代表として無様(ぶざま)な試合はしたくない一心でした。初出場ではありましたが準決勝に駒を進めたのでした。 件の人(鬼コーチに殴りかかった2年生)は、後に生徒会長、一ツ橋大、ハーバード、新日鐵副社長、進藤孝生」
進藤孝生氏については、9月8日にこのブログで「秋田さきがけ新聞」に掲載された時、紹介させていただいたので、記憶に新しい方もおられると思う。
http://d.hatena.ne.jp/akita319/20090908/1252382119

一方、私がお世話になった秋田高校OBはたくさんいるが、ラグビーOBで古い方では秋田市エコー少年ラグビークラブでお世話になった昭和11年卒の伏見武治氏、昭和25年卒の近江宏平氏(私が高校時代は高校ラグビーでレフリーをしていた)、協会では秋田県ラグビー界発展に寄与された昭和12年卒の小沢雄象氏らである。