第二報道部オフサイド日記

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秋田高校ラグビー時代の進藤氏

去る2月15日に秋田県ラグビー90周年記念で講演してくれた秋田高校ラグビー部OBで新日鐵住金の次期社長 進藤孝生副社長(秋田市出身)の秋田高校ラグビー部時代のエピソードをOBの方からお寄せいただきましたのでご紹介致します。
中学時代の恩師、近江宏平先生(秋田高校ラグビー部OB)の影響も大きかった様です。
近江先生は当時、高校ラグビーのレフリーをしておりました。

近江先生


進藤孝生氏とプロフイル



彼のエピソード:
彼が高校2年の夏合宿、毎日が雨の日鉱船川グランド。
市立高校との練習試合<男鹿工業高校ラグビー部元監督の内藤徳男さん(当時、秋田市立高校在学)も出ていると思います>に負けた我々にタックル練習が課せられました。
タックルが終って更にゴール前のアタック10本が追加されました。
ドンドンと言うゴール前の攻撃練習は25ヤードラインからゴールに向かい、タッチラインからタッチラインまでを片道3回行き来するものでランパスに次ぐ苦しいものでした。
1本ごとに何回かアゲインがかかり、5本目をようやく終えたと思ったら3本目にカウントが逆戻り。
誰もが天変地異、親の葬式を願いました。
終わりのないその練習に業を煮やした進藤が、アゲインを繰り返す鬼コーチに約束は10本ではないか!コノヤロー!!とばかりボディブロー、殴り掛かりました。
鬼コーチ渡辺一男さん、毅然としたもので、オレの言っている10本はしっかりした10本だ。
しかし、その騒動があってそのあとはアゲインが大してかからず10本を終えたのでした。
今になってあの時、あの騒動がなければ誰か死人が出ていたと思います。
我々も、渡辺コーチも命拾いしました。

花園の試合前日、消灯時刻を過ぎて、進藤は電気の光が外に漏れないように布団をかぶって勉強していた所を監督に見つかり、次の日から
勉強部屋の監視が厳重になり3年生から、同僚からブーイング。
彼は勉強をしたいが為に野球部ではなく1時間練習のラグビー部を選択し、花園に出られる、とは夢にも思わなかった、と述懐しています。
私もその一人でした。
花園予選で秋田工業高校を破ってから3年生は受験に備えなければならず、まだラグビーをしなければならないのかと詠嘆して練習に消極的な3年生もいました。
野球少年がグローブを捨て楕円球を手にした事が彼の人生最高の選択だったと思います。