第二報道部オフサイド日記

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男鹿工業高校ラグビー記録の生き字引 加賀谷さん逝去

男鹿工業高校ラグビー部の創部から内藤徳男監督が定年退職まで資料の保管、整理で内藤監督を支えてきた元男鹿工業高校図書館事務の加賀谷孝子さんが12月2日、80歳の人生を終えた。

息子さんは男鹿工業ラグビー部OB、娘さんは男鹿工業ラグビー部マネージャーだった。

1年半前に難しいガンが見つかり、回復の目途が無い中、必死で生き延びた。

私の次男は男鹿工業ラグビー部OBで、加賀谷さんには何かと息子が卒業後も世話になった。(一番世話になったのは内藤監督かもしれない)

葬儀は12月5日に親族だけで執り行われ、内藤監督が弔辞を読んだ。

私は亡くなる2週間前に病院へ見舞いに行った。

その時点で余命1週間と医師から家族に言われていた。

ベッドで上を向いて言葉は出せなかったが、私を見て涙を浮かべて布団から両手を出して私に握手を求めてきたのでしっかりと握手したのが最後だった。

本人にとっては、よほどうれしかった様だった。それから1週間後に亡くなった。

加賀谷さんは男鹿工業高校在職中は内藤監督を支え、昭和47年に男鹿工業高校の前身である金足農業高校船越分校自動車科から勤務が始まった。その後、ラグビー部が誕生し内藤監督の事務的な仕事を一手に引き受けていた。

また、加賀谷さんの家には内藤監督がよく寄り、疲れを癒していたという。

加賀谷さんの家はOBの親の溜まり場でもあった。

また、加賀谷さんの夫(82歳)は男鹿工業高校ラグビー部のバスの運転手としても知られている。

北海道や関東にラグビー部が遠征するときにはラグビー部の中古バスをよく動かし、あちこちへ部員たちを運んだ。北海道遠征の時にバスが動かなくなり、部員がバスから降りてバスを押したエピソードもある。

また、目黒高校ラグビー部が夏に毎年、大潟村に合宿に来た時には同伴してきた親たちを男鹿観光のバスのドライバーもやった。

夫婦で男鹿工業ラグビーを支えていた。

2007年(平成19年)2月、男鹿工業東北新人大会出場時の加賀谷さん夫婦

平成18年3月に男鹿工業を退職した時には盛大に感謝の会が行われた。

寄稿文には男鹿工業に勤務した時から内藤監督の出会い、花園へ出場などの思いが書かれている。

男鹿工業ラグビー名物、ラグビー部バス。

加賀谷さんの夫が長年、ドライバーを務めた。

合掌