第二報道部オフサイド日記

秋田の話題・お祭り・風景・秋田のラグビーの紹介

同点・抽選

ラグビーは野球やサッカーなどのスポーツと異なり、同点で試合終了になって延長戦は無い。
抽選である。ただし、同点でもトライ数が多い場合が勝利となる。
この抽選で泣いたチーム、勝って大騒ぎになったり悲喜こもごもである。
その抽選の1試合 第45回全国大会2回戦 秋田工業対淀川工業もその一つ。
 8-8で同点抽選、淀川工業が3回戦進出。
当時の秋田工業のキャプテンは佐藤鉄三郎氏(法政大卒・東京在住)である。
当時は細川兄弟と呼ばれる双子の部員もおり、兄弟ともトライゲッターであった。
その後、兄弟の一人は東日本大震災津波にのまれ世を去った。
第45回全国大会の記録の一部をご紹介。

秋工ラグビー50年史 金砂原頭の想い出より 昭和41年1月3日 第4⒌回全国大会2回戦 秋田工業8―8淀川工業の試合(淀川工業の抽選勝ち)

全国高等学校ラグビーフットボール大会80回記念誌より
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当時の淀川工業の私と同じ年齢の方からフェイスブックにコメントが寄せられております。
 
懐かしい思い出の写真です。
その写真を見ると
昔の花園ラグビー場生駒山側のスタンドは小高い土手で椅子は丸い木を土手に打ち込みその木に板を張り付けた椅子でした🎵
グランドの周囲には1m位の高さのマキノ木が植わってありその外側を歩いていました。
グランドの北側はゴルフの練習場でそこからグランドの南側にゴルフボールを打っていました🎵
現在の第二グランドは昔はゴルフ場で9ホ―ルのショ―トグランドだったので、第一グランドの生駒山側に第二グランドがありました
秋田工業高校で懐かしく思い出すのは、
 昭和40年度、淀川工業高校の一年生の時にラグビー🏉部の小薮 修主将がチ―ムをまとめ全国大会に出場。
二回戦で秋田工業高校と対戦し同点で試合終了後抽選勝ちとなり三回戦に。
その後勝ち進み全国三位になった思い出が懐かしく思い出します🎵
私が一年生の時に、小薮修主将がまとめて指導していたバックスの厳しい練習に耐えた結果
二年生で左ウイングとしてレギュラーになり大阪府和歌山県代表で大分県国体出場・大阪府代表で全国大会出場。
三年生になった時の春に開催された大阪府の新人戦で優勝し大阪府代表で近畿大会に出場し優勝。その後さらに厳しい練習をおこない大阪府和歌山県代表で埼玉県国体に出場して三位なっています。
秋田工業高校ラグビー🏉部員のみなさん全国大会出場に向かって頑張って練習される様に応援しています🎵
 淀川工業のセンターNo13岡本君は私の同級生で三年生の時の主将です。
その後日体大から我が母校の体育教師となり我が息子が淀川工業高校に入学した時の担任となり指導。
厳しい練習を指導で部員数140数名の中でリザーブ、二年生からレギュラー、三年生で主将となり親子二代全国大会に出場。
 卒業後日体大へ二年生からレギュラー活動していました。
その後三洋電機に入社して宮地監督の指導を受けてNo13、No15で活動、選手引退後コーチ活動。
三洋電機からPanasonicに吸収合併と同時にPanasonic初代監督となり田中君・堀江君・稲垣君等々を指導し秩父宮ラグビー場でのトップリーグ優勝、そして…改装前の国立競技場で開催された大学との日本選手権で優勝しています🎵