第二報道部オフサイド日記

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ラグビー部員の巣立ち

昨日、男鹿工業高校ラグビー部の3年生を送る会が県内のラグビー部に先立ち、地元男鹿市船越の「きりん亭」で行われた。
私は父母会OBとして出席。
渡部男鹿市長、男鹿市選出の菅原県議、元男鹿工業高校ラグビー部監督で、現名誉監督の内藤徳男先生らも出席。午前11時からの卒業記念試合の後、OB会への入会式に続き、1名の女子マネージャーを含む17名の3年生部員をOBや父母たちが卒業を祝った


<卒業部員に一人づつ言葉をかけ、記念品を贈る近藤周平監督>

<3年生の女子マネージャーに一人づつ花束を贈る3年生男子部員>


<男鹿工業高校ラグビーの在り方について語る内藤徳男元ラグビー部監督>

<子供を思う親の気持ちはどこの学校も皆同じ>


ラグビー部の卒業文集「寒風」>

<昨年秋の県花園予選準決勝、秋田工業戦。後半の反撃は素晴らしかった>

男鹿工業高校は1981年(昭和56年)秋田県男鹿市船越に県立金足農業高校の分校から県立男鹿工業高校として創立。
ラグビー部は学校創立と同時に創部。
創部3年目の1984年(昭和59年)に秋田市立高校(秋田中央高校)ラグビー部監督であった内藤徳男先生(秋田市立高ー法政大)が男鹿工業ラグビー部顧問として赴任。
その後、内藤監督のもと昭和63年、平成4年、平成6年、平成9年と花園予選決勝戦で秋田工業を破り花園へ4回出場、その名を全国ラグビー界に広めた。
最初のころは、男鹿工業(おがこうぎょう)を、花園の場内アナウンスも「おじかこうぎょう」と読んだほど無名校でもあった。
内藤監督は昭和59年から定年の平成20年までの24年間、社会科の教師でありながら、男鹿工業高校ラグビー部を指導してきた。
その中で、県の花園予選で優勝するチーム力でありながら花園予選の決勝や準決勝で秋田工業や秋田中央高校と同点抽戦負けしたことが何度もあり、花園出場を逸したことを内藤監督は今でも悔やむ。