はなすはみた

近畿地方が激しい雨の為、楽しみにしていた今日の甲子園での秋田商業高校の試合が延期になった。

1945年(昭和20年)8月14日午後10時27分、終戦の前夜。秋田市土崎の旧日本石油製油所を中心ににアメリカ軍のB29爆撃機134機が12,047発(953.9トン)の爆弾投下、攻撃は4時間に及んだ。
250人以上が死亡し、全焼104、半焼6、全壊12、負傷者は300人を超え、秋田市の中心からはもとより、当時、由利本荘疎開していた人からも日本海沿いに空が真っ赤に見えたという。
当時を知る人は70代以上だろう。

<土崎空襲の絵本「はまなすはみた」の表紙 1981年(昭和56年)8月14日発刊>



           
<土崎空襲直後の秋田市土崎の日本石油


<絵本での日本石油製油所が爆撃される模様>



 <空襲でヤケドをした市民達は、近くの「ひかり沼」に飛び込んだという。地獄図の様だ>



   
<現在の旧日本石油製油所。奥に残る被爆倉庫を保存の要望が多い>



 <現在も残る土崎相染の「ひかり沼」、多数の火傷の負傷者が飛び込み、帰らぬ人もいた>

<ひかり沼周辺は現在、テニスコート・室内運動場・公園となって平和と化した>

          
秋田市土崎港相染町浜ナシ山町内にある慰霊塔。昭和40年に作られ、慰霊塔の文字は当時の県知事 小畑勇二郎氏が書いたもの。慰霊塔の台座は当時の日本軍の大砲の台を使用。毎年8月15日正午のサイレンの音と共に、ここで慰霊祭が行われる。最近は台座の破損が進み、修復費用負担を町内会では苦慮している>
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はまなすはみた」より抜粋
・土崎の町が地獄になった日、それは昭和20年8月14日のむしあつい夜でした。なまぬるいダシ(風)が吹いていました。日本中は、戦いに疲れていました。そうです。終戦がもう半日早かったら土崎で誰一人死ぬこともなかったのです。その日は盆の14日で仏様にお供えをし、一日無事に過ごせた事を感謝し、遠く戦地にいる父さんや兄さんの無事を祈っておりました。
・ぺったりと、なまあたたかい背中。みると背中の我が子の首がありませんでした。
・「そらっ、逃げれ」爆弾の落ちる合間をかいくぐって、浜から松林の方に農道づたいに走ります。あっ、何人かの人影が消えました。道の途中、ひかり沼に落ちたのです。
日本石油についで爆撃がひどかったのは浜ナシ山でした。16人が入った防空壕も直撃を受けて、みんなこなごなになりました。(中略)浜ナシ山には慰霊塔が建てられました。

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今でも時々不発弾が発見される事があります。
もしかして私の家の地面奥深くにも不発弾が残っているかもしれません。